ゆれる

金曜日は初めてマタニティヨガに行ってきました。
ヨガをやっている間に体が温まって、鼻水がズルズル。コーラスのときもだけど鼻呼吸をしている鼻の血行がよくなるのか、だんだん鼻呼吸が辛くなってくるのでした。

ぽかぽか温まって帰ってきたけど、幼稚園のお迎え後はどよーんと疲れが出てしまった。
買物して帰ってきて昼寝したら、もうダルダル。

ヨガ自体はとてもよくて、先生もとても親しみを覚える方だった。夕方疲れきって横になっている間にいろいろ考えると場所が助産院でなんだか自分が場違いなような気がだんだんしてきて、そういう自分を見つけて悲しくなってきた。

前回は緊急手術で手術台の上で考えることなんかないから、手術中も落ち着いていた。でも今回は前日入院したり、手術時間も前よりもかかるかも知れないし、手術中も気にしてしまうことが多いのではないかと思うので、ヨガで体と心をコントロールすることが必要ではないかと思う。
そういう風にマタニティヨガをすることに理由を探してしまう自分がいやになってしまった。

「自然なお産」とか「助産院でのお産」というものに対して、自分は思考停止というか感覚遮断している部分があるんだと思う。「憧れ」とか「羨ましい」とか自分の中にそう感じている部分があるのかどうかを考えないようにしている。

きっとそこは「ノルウェイの森」に出てくる野原の古井戸のようなものだと思う。


「自然なお産」とか「助産院でのお産」を迎える人たちの前に出ていって自分は「前回緊急帝王切開で今度は予定帝王切開です」と言うことは平気だ。
「自然なお産」と「帝王切開」や「医療介入を受ける出産」という二項対立の図式を作ってしまうこと自体おかしいと思う。
「自然なお産」とか「助産院でのお産」をする人がそれぞれ違うように、帝王切開だって人それぞれ違う。一括りにできるものじゃない。
妊娠と出産は一つの過程であって、決してそこがゴールじゃない。
でも、過程そのものにも「よりよい」を求めてしまう。何が「よりよい」のかも分からないのだけど。


図書館で天才がどんどん生まれてくる組織 (新潮選書)昔の女性はできていた―忘れられている女性の身体に“在る”力を借りてきていて、たまたま共通するのが肚とか体の軸、センターとかいう言葉だ。
ヨガにも出てくるけど。

昨日は軸がゆれゆれの日であった。
これもヨガの一つの効果なのであろうか、悪いものがどんどん出たということなのかな。

また次回も参加して、元気に帰って来れたらいいな。