そういうことかー

少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ (岩波新書)

少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ (岩波新書)

むすめ1号が小学校に入り、むすめ2号ちゃんが歩き始め、赤ちゃんじゃなくなってきた今日この頃。学童保育の定員拡大や区立幼稚園で園長保育が始まるかも、なんてことを耳にしながら将来の家族像など思い描いたりもする。

中学生ぐらいのときから、自分の将来は今程幸せじゃないだろう、そんなに明るい未来じゃないだろう、と薄々思っていた。そして今はむすめ二人と夫と四人家族で東京で暮らしながら、自分が実家で子供だったとき以上の経済的な余裕はこの先ないなぁーと感じている。

実家だって決して裕福な訳ではない、1970年頃に子供3人を持って住宅ローンを背負い、80年代に共働きになり、子供三人の大学までの教育費をかろうじてやり繰りした家庭なのである。

自分が三人兄弟だったので、子供は三人いたら面白いだろうなぁー、とついつい思ってしまうのだけど、三人目は高嶺の花、贅沢品のような気がしていた。
この本を読んでいてどうして子供が贅沢品に思えるのかというと、やっぱ「お金がかかる」と思われているから、自分も思ってしまっているからなんだと気がついた。
結婚生活、子育てへの期待水準>収入の将来の見通し
という感覚があると子供が二人いるともうオッケーでしょ、という気持ちが強くなってしまう。
でも、これは実際にかかるお金ではなくて期待水準なのだからなんとか修正可能なんじゃないかな、と考えてみる。


子育てに本当にお金がかかるのか、というとそこはやっぱり考え方次第でちょっと変わってくるんだと思う。
自分が子供のときに親がしてくれた以上のものを子供にはかけてあげたいという心理。子供の才能を伸ばしたりセンスを磨いたり、いろいろな機会を与えてあげたいという気持ち。その辺をちゃんと整理してみれば、年齢が上がってもお友達がやっているから、とつられてお稽古ごとを始めなくても済みそうだ。
年齢が上がると、自由時間のあるお友達が減って遊び相手が減ってしまうらしいけれど。

自分(もしくはお友達)と同じくらい勉強ができて欲しいとか、スポーツが出来て欲しいとか、音楽が上手であって欲しいとか、英語が喋れて欲しいとか、勝手に子供に期待をかけ始めちゃうとキリがない。
今のところ、むすめ1号に関しては運動はあまり期待できない、音楽は心配なぐらい。

でも、私が同じ年のときはもっと苦手意識と劣等感いっぱいで楽しむことはできなかった。今、むすめ1号は傍から見てると「ありゃりゃー」って感じだけれども、何事も楽しんでやっている。そういうところがとてもいいと思う。


というわけで今日から月謝の安いサッカークラブに入会したので、シューズやらすね当てやらストッキングやら買わなければなりません。まぁ、毎年ボールを買わされちゃうクラブではないので、お金は本当にびっくりする程かからないです。